永田 和宏

  滝友梨香さんは、1966年に横浜港からブラジル丸で日本を発ち、以来、移民としてサンパウロ市に住んでいる。 そして、いわば地球の裏側で歌を作りつづけている。

  この「地球」の裏側でというのは、私たち日本に住んでいるものの思い上がった表現であり、小学生が、南半球に住んでいる人たちはどうして逆さまに立っていられるの?、

どうして地球から落ちていかないの?と問うことに近い。ブラジルから見れば、間違いなく日本は地球の裏側である。日本で作られる世界地図では、日本と太平洋が真ん中に

デンと座っているが、アメリカ製の世界地図は、もちろんアメリカが中心にあって、日本は「世界の片隅」にしか描かれていない。

  滝さんは、ブラジルという地から、日本を逆さではなく、正影として見つづけてきた。

日本よりこの地に日日に永くなるあの境目のさびしさまたも

という一首がある。ちょっと読むと意味がわかりづらいが、横浜港を出港した日を境といして、二つに区切られた人生の、後半部分のみが長くなっていくことの感慨を詠んだも

のであろう。

赤い靴を履いて日本を出で行きし女の子と同じ波止場を発ちぬという歌もあった。そのようにして長くなっていくサンパウロでの生活であるが。正月になるとやはり箸と

膳で元旦を祝う生活である。決して<向こう>の人間にはなり切ってしまえない、そのかなしみとこん矜持とのはざまに滝さんの歌が紡ぎだされる。

  縁あって「塔」の会員となられたが(古い会員の小石薫さんが義姉である)、言語も生活習慣もまったく異なった地で、歌という、いわば日本語のもっとも洗練されたセンスを

必要とする詩型に関わり、作りつづけていくことの困難さは、おそらく私たち日本語のなかで生活することを当然のことと感じている人間には、本当には実感のできないことな

のであろう。

バスの中に歌をメモする縦書きを覗かれつづける外人である

  折に触れて歌をメモする。それを横から覗かれる。日本でも、確かに奇異な目で見られそうな風景であるが「縦書き」に書いているところをみられるとき、強く「外人である」こ

とを意識せざるを得ない。歌という詩型に関わることがなければ、あるいは「外人」意識はもっと自然に希釈されていくものなのかもしれないが、この一首には、むしろ「日本人」

であることを最終的には選びつづけるという作者の覚悟さえもが、かすかに揺曳している。おそらく滝友梨香さんが、歌を表現の手段として選びつづけていることの意味は、そ

こにあるのだろう。

わが歌に涙のすじのなきことを先の移民と比べられおり

またひとり一人と逝きて故郷は徐徐に褪せゆく写真のごとし

  移民として異国に暮す人々には、それぞれさまざまの苦労や困難があったことは想像に難くない。特に本書の冒頭近くにもあるように、1908年から始まるブラジル移民の

初期の頃の移民の方々の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったと聞いている。この歌集でも、彼ら初期の開拓者たちを「古移民」と呼んだりもしている。

  滝さんの歌には、「涙のすじ」が無いと評されたという、それはとりもなおさず、移住・移民の歴史が重ねられて、かってのような苦労をせずともよくなったということでもあろう

が、その批評は、確かに滝友梨香歌集『坩堝の中で』の特徴をとらえてもいる。滝さんの歌には、お涙頂戴式の苦労話はまったく影をおとしていない。時代や個人的な環境と

いうこともあるだろうが、何より滝さんの性格と、そして歌に対する思いと覚悟がそこには色濃く反映されているだろう。「また一人」と同胞を失うことによって、「故郷は徐徐に

褪せゆく写真のごとし」と感ぜられるにしても、それを過剰の悲嘆で飾ることはしない。

  むしろ滝さんの作品からは、現地で明るく、逞しく生きてきた、そして生きている女性の存在感がしっかりとこちらに手渡されてくるのである。

草原の直き草とし立ちおれば草を出し陽は草に入り暮るる

咲きし順にデンドロヴューム散り終わり光りを吸うもの
一つ消えにき

一本のストローとなり花の蜜を吸いつづけいる朝の蜂鳥

  私にも二年間の外国生活の経験があるが、おそらく異国で短歌作品を作るのがもっともむずかしいのは、自然詠であろうというのが実感であった。どうしても風景を切り取

る手つきが、日本の風景を見る視線と同じになってしまい、せっかく珍しい景色を前にしながら、相も変わらず日本的な風景としてしか歌に定着されないのである。

  太陽が草から出て、草に沈む。実に当たりまえのように歌われているが、この直截な表現のなかに、大風景としての草原は十分な再現力をもって立ち現れてくる。二首目

も、南国の景を捉えるだけでなく、「咲きし順に」「光を吸うもの一つ消えにき」という表現のなかに、確かな認識力が内包されているのを見るのは容易である。

  このような表現への意欲と自信が、たぶん次の歌に見えるような思いきった冒険を作者に許すことにもなるのだろうか。

大鯰のバケツのごとき大口が煮くずれてきて汝には笑窪

マリアとマリアが、マリアを押して道をゆくマリアらしきは幼きマリア

六月十八日移民祭南無釈迦牟尼仏開拓先亡者之霊位 拝礼

  アマゾンでとれた大鯰を料理する。その大口が煮崩れするのは事実であっただろうが、その実景から、突如結句にいたって「汝には笑窪」へと跳ぶ飛躍が鮮やかである。

二首目は、小題「マリア」のもとにある作品だが、そこには「マリアの名が多くあり過ぎて」詞書がある。まことにラテンの国では、どこを向いてもマリアだらけ。それをここまで

思いきって歌えるのは、表現の水位に対するしっかりとした見きわめが作者にあるからである。三首目の漢字ばかりの実験作も然り。結句の「拝礼」という号令(?)が効いて

いる。

  この歌集『坩堝の中で』は、ブラジル移民という枠をはずして読むことはできないだろうが、評価そのものは、また別のところにある。移民という特殊な背景に寄りかかった作

品ではないからである。そのような枠を越えたところで、厳しい批評と鑑賞に、十分耐えられる水準をもった歌集である。

  滝友梨香さんは、サンパウロにあって、ブラジルの日系歌壇でも活動していると聞いている。この実力をもった歌人の歌集が刊行されたことを契機として、ブラジル歌壇にも

新しい刺激が生まれることを、そしてわが国においても、遠い地で確かにしっかりと息づいている短歌作者たちの作品に、いっそうの注目が集まることを願うのである。


   永田 和宏氏は 「塔」主宰者
 現在・日本の短歌の五指に入る方です。

 

評 歌の弾力 小林 久美子へ

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