移住生活もこの歌集の出る頃は三十五年目になっていることと思う。二十六歳で日本を発ち、その歳よりもブラジルに住む年月が長くなりはじめた頃から妙なさびしさに
おそわれるようになりだした。とはいえ、私は自分の意志で実にあっけらかんとこの国に来たのであって、移民とは即ち、棄民と言われたようなそんな思いで一日とて暮らし
た事はない。このブラジルに喜んで住み「喜民」とおもっている。住みやすくて皆天国のようだと言い「貴民」とあて字を使う人もいる。この国の政治、経済、治安問題いろいろ
悪い面を考えても、まだ右のような思いを持ってこの国に住んでいるのである。棄民という字は広辞苑にも国語辞典にも漢和にもない。誰が作った字かと不思議に思う。こ
の2001年6月邦字新聞には「移民」という言葉は差別語であるとの配慮から、NHKがサンパウロから生放送する番組の中で使用を避けるように指示したことを伝えていた。
私たち移民はこの言葉に懐かしさと誇りを持っているのに、と波紋をくり返し記事にしている。私たちは暗く悲しい思いは持っていない。この地で努力し、成しとげ築き上げ
たことに喜びと誇りを持っているため伸び伸びと明るいのである。出稼ぎもやむを得ない経済政策の悪さ、治安の悪さ、マイナス面も実に多いが、この国の奥へサンパウロ
市内から百キロも入っただけで「こんな雄大な凄い国に住める事をありがたい」としみじみ思う。日本を離れて客観的に日本を観ているのは駐在員も同じであるが、移民の
目とはかなり異なるのではあるまいか。話し合うと、祖国を思う気持ちにその差を感じさせられる。私たち移民のように、優劣の子を二人持った親の心で祖国と住んでいる
国を二つの祖国とし胸を燃やす事はあるだろうか。
この歌集はどのように読みとっていただけるだろうか。
移住して三十四年間の体験と見聞きしたこれらの歌から、旧移民からの努力で築きあ
げた日系社会を知っていただけたらと思う。そして、どうか遠慮なく移民と呼んでもらいたいと思う。移民はいつも生れた国へこころを向けているが、ノスタルジーは人間とし
て自然の事だと思う。先の移民達は過酷な労働や食生活などいろいろな面で望郷をつのらせた短歌ばかり作ったと聞くが、現在では日本へも簡単に行け、NHK放送を見る
事も出来、食品にもそれほど不自由をしなくなった。その分「涙のすじ」のない歌だと、私などは言われるゆえんである。作品のほとんどは「塔」の澤辺元一先生の選を受け
たものですが、長年温めてきたものも入れました。幾度かの訪日の作品は今回入れず、ブラジルとウルグァイでの作品のみにまとめました。
この歌集名は、ブラジルは人種の坩堝といわれているところからつけました。またさまざまの国の人びとの墓標を見て、そこにも坩堝を感じたことにより生れた一首の作
品の中からとりました。歌集冒頭の「セー教会」はサンパウロ市の中心であり、この広場にある起点をもとに地方へ何キロと示されています。ちなみにわが家へは七キロ、
車の渋滞のない時ならば十五分程です。私の歌集はやはりここから始めなくてはなりませんでした。短歌を作りはじめてすぐ「塔」へ入会させていただき、澤辺元一先生の
もとで一から勉強させていただきました。そして、永田和宏先生をはじめとする「塔」の皆さんに御指導をしていただきましたことはほんとうに幸運と思います。ありがとうござ
いました。
尚、このブラジル日系社会にしかない言葉、移民の生活上必要なために作った日本にはない言葉を何ヶ所か使っています。コロニア語といいます。その言葉を更に略し
て、普通に会話をし邦字新聞に使用しています。
伯国=伯刺西爾ブラジルの略
着伯=ブラジルに着いた
ポ語=ポルトガル語
日伯=日本とブラジル
聖市=SÃO PAULO
日語=日本語
この中の一部を歌集に使用しています。
最後に御多忙の中で、序文を書いて下さいました永田和宏先生に深く感謝いたします。
この歌集の出版にあたり最後まで世話をしてくれました「塔」会員小石薫姉と、私がサンパウロにあっての煩雑な作業を進行させて下さいました、ながらみ書房の及川隆
彦様ほかスタッフの皆様に心よりお礼申しあげます。
2001年10月
滝 友梨香
〔略歴〕
本名 白井ノブ子
1940年8月15日 高知県に生れる
1966年9月2日 ブラジル丸にて同船者36名と横浜を発ち南米に向かう。
ウルグァイを経て 同年12月3日着伯
1991年 「塔」に入会
1994年 NHK全国短歌大会 森岡貞香先生選 特別賞(海外作品賞)受賞
1999年 NHK全国短歌大会 石田比呂志先生選 特別賞(海外作品賞)受賞
現住所 R.ADOLFO CASAIS MONTEIRO
31 J.PRUDENCIA SÃO PAULO
CEP: 04648-040 BRASIL
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